捕鯨の歴史

太地町のこと

日本の捕鯨はかなり古くからあると言われています。古くは縄文時代。
石川県能登町の真脇遺跡からは、大量のイルカやゴンドウ鯨の骨が出土したことで有名です。他にも全国各地の貝塚の遺跡からイルカやクジラの骨が出土しているという報告があります。
石川県真脇遺跡のサイト

つまり、くじらと私たち日本人との歴史は、4000年以上も前から続くものなのです。

歴史的に見て安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、組織的な捕鯨がされてきたと記載されています。全国でいうと、三河(愛知)や伊勢(三重)、紀伊(和歌山)、土佐(高知)、松浦(佐賀)など各地で始まったそうです。

私たちの住む和歌山県太地は、台風中継でもおなじみの本州最南端に潮岬から東北約20キロに位置していて、太平洋に突き出た半島です。

慶長11年(1606年)、和田頼元によって組織的な捕鯨業としてチームが作られました。当時は縄をつけた銛によって捕る漁法でしたが、延宝5年(1677年)、和田頼治が、網を使って追い込み捕鯨するという漁法を考案。この太地という地域はいわゆる和田一族が先頭となり、太地町住民の大半が、捕鯨業にかかわりをもっていました。

太地町立くじらの博物館蔵

それは苗字にも反映されています。

例えば、私の名前の漁野(りょうの)は、鯨船の乗組員だった由来から来ています。
また遠見(とおみ)などは太地のシンボル岬、梶取崎(かんとりざき)から鯨の回遊を見定めて、狼煙をたいて知らせる係が由来とされています。
他にも梶(かじ)は捕鯨用の銛や刃物をつくる鍛冶職人からの流れ。
由谷(ゆたに)は解体した鯨の皮や骨から鯨油を採取する職人の流れ。

まさに太地は、鯨とともに歴史を歩み、現在に至っているわけです。

太地には今ではあまり使わない言葉ですが、太地特有の鯨にまつわる言葉があります。

例えば、「マッコウ日和」。

意味は、春先から初夏にかけて、明日は雨が必ず降りそうな日のことです。このような日は、マッコウクジラの漁に出ている捕鯨船が鯨を捕鯨して帰港することが多いため、このような言葉がありました。

また「タッパを返す」。

意味は、気持ちよく昼寝していることを言います。タッパとはゴンドウ鯨の胸ビレのことを言うのですが、普段は水中にあり見ることができない胸ビレを時として、海面穏やかな早朝などに水面上にあげて静止していることがありました。鯨が体を横にして熟睡しているように見えた様から出来た言葉です。

さまざまな環境、捉え方がありますが、これは純然たる私たちとクジラの歴史です。鯨とともに。日本人特有の乱獲をしない、もったいない精神。お命「いただきます」の精神。私たちは、鯨文化とともに太地町として後世に伝えていかなくてはいけないですね。

参考文献『鯨料理の文化史』高正睛子著

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